最近読んだ本。「農!黄金のスモールビジネス(杉山経昌著)」。農業書では、ちょっと注目の本だそうだ。 外資系ビジネスから転身して、17年。氏のメッセージは、机上の空論ではなく、トライ&エラーの末の起業レポートといえる。 そこには、守られる農家から経営する農家へ、あるいは、ルーチンワークからクリエイティブビジネスへ、ともいうべき、農家と農業に対する価値軸の、転換の必要性が、説かれている。 まず、従事する労働時間をコストと捉え、最終利益に着目した。これは経営者の目線だ。 次に、お客様を特定し、売れるものを一番高く売れる方法を、10のうち9の失敗の積み重ねの中から学んだ。これはマーケティングの実践だ。 そして、自分が作り出した作物に対する世界一の誇りを手にした。これこそ、農家だけにしか味わえない労働の喜びだ。 現在、どの農村も抱える高齢化・後継者不在・荒地化などの課題に対して、結論的に、今後の日本の農業がめざすべき方向性は“スモールビジネス”だ、と提唱する点において、示唆に富んでいる。 ふと、行政にもあてはまることに気づく。大きな政府より小さな政府、つまり官から民へという流れ。財源と権限と(借金と)を、中央から地方へという流れ。 世の中がどんどんフラット化し、ネットワーク化していく中で、従来どおりのやり方が当てはまるほうがおかしい。 議員としての私がなすべき実践は、氏に習えば“どんどん失敗すること”だそうだ。
6月定例本会議も、今日で閉会となる。 見るもの、聞くもの、すべてが初体験。あっという間の2週間であった。 議会のルールや、それぞれの会派の性格や、あるいは、理事者と呼ばれる県庁職員の志向性や。 なるほどこういうふうになっているんだ、ということを、なんというか、体で覚えさせられた2週間であった。いろんな要素が相俟って、議案決定は為されていく。 議員諸兄も多士済々だ。当選回数を重ねた先輩方には、さすがに厚みがあった。その知見の豊富さと深さには、凄みさえ感じさせられた。 と、そんな議会や議員や理事者の中で、私が、支持者の皆様のご要望を形にしていくには、圧倒的に研鑽と経験と関係が足りないことを、痛感。 おかげで、高校以来の猛烈な勉強意欲と、小学校以来の貪欲な質問意欲が、心の底からかきたてられた。 さて。本会議を終えて、変わったこと。それは、戦う相手と、戦う場所と、戦うということの意味がわかったこと。 問題は、この勝負、どうすれば勝てるかということだ。魑魅魍魎で、きっと正解はない、この難問ではあるが。 青空に広がる、あの雲のように。心の中で、やる気がムクムクと沸いてきた。
久間防衛相辞任。明日の朝刊1面タイトルは、これで決まりか。 政治家の発言と責任は、どこまでも重い。まして閣僚となると、なおのことだ。災いは口より出でて身をやぶる、である。 かの問題発言の原因は、どこにあったか。 心に思うところを意見、といい、意見を述べるを発言、という大辞泉によれば、それは、心である。 心にあるものが、いざというときに表われるのだ。とすれば、政治家は常に、心をどう磨き、保つか、修行ともいうべき、その屹立とした矜持が問われよう。 さて、と自身に置き換えてみながら、今日も、いくつかの市民相談をお預かりした。次々と、未経験領域が押し寄せる。その都度、先輩に相談しながら、書に触れながら、誠実に、慎重に、取り組ませて頂く毎日だ。 また、相談者に対して、回答をお返しする際、自身の発言に配慮は足りているか、油断はないか、これでよかったか、といつも考える毎日ともいえる。 辞任のニュースを聞きながら、私は。 失言を恐れるよりも、失言が出ない心を鍛えたい。目の前の、そのお1人の気持ちにいつも寄り添える自分でありたい、と決意する。 災いは口より出でて身をやぶる、の次の句は、幸いは心よりいでて我をかざる、である。 明日も、心から、出発だ。
カーテンを開けると、ザーッと、力強い雨音。 こんなにも雨天を嬉しく思うのは、いつ以来だろう。県下のダム貯水率の回復と、水不足の懸念払拭を祈りながら、起床。 今日は雨の中、企業訪問・市民相談・庁内折衝・党務に勤しむ。 決戦まで、あと27日となった参院選に、ボルテージもいや増して。山本ひろしを熱く語りながら、未来への責任を訴えながら。 夜も更けた頃、1本の電話が鳴った。あるご婦人と、2,000円をどう思うか、という話になった。 文脈の中でということだが、要は、これを捻出することが大変、という人の気持ちを、政治はわかるかという投げかけだ。 国も地方も、急速な少子高齢化とグローバリズムが進む中、待ったなしで今、痛みを伴う構造改革に取り組んでいる。が、庶民の目に映るのは、ほとんど痛みのみ、なのだ。 2,000円の負担さえ痛い、と感じる人の気持ちを、本当に政治家も官僚も、理解しているのだろうか。 私自身はもちろん、と自答しながらも、一瞬、本当にわかっているだろうか、と不安になる。 公明党は、この痛みをわかる政党であり、議員集団であり、そこを離れての存在価値はないし、支持者の皆様にも認めてもらえないだろう、と思う。 だからこそ、それが2,000円であれ有難い、という喜びを、弱者に広げゆく、力ある存在に成長しなくては、と心に期した。 受話器を置きながら、ざらつく窓の外。恵みの雨は、まだ降り続いている。
今のスーパーは、その昔ストアであった。 支払いレジではお互い顔も見えたし、会話があった。お勘定も、バーコード読取りではなく、手動計算であった。飛躍的な便利を得て、大切な何かを失った、気がする。 それは、テレビも同じかも、である。チャンネルを回すと、政治はもはやバラエティと化し、政治家がタレントになり、タレントは批評家になり。 それだけ政治が身近な存在になったことは、いいことだ。いろんな意見があることも、とっても、いいと思う。が、問題はそのあとだ。 見る人の見方によれば、TVはある種の答えだ。バーコードが、情報を記号化するように。 ニュース番組が、だからけしからん、で終われば、見るほうも、それはけしからん、で終わってしまう。 けしからないとしたら、じゃあどうする、ということを自分の頭で考えたいし、ぶつけたいし、それを持ち寄る行動の中にのみ、解決の糸口を見出すことができるのだ、と私は思う。 コメンテーターではなく、キャスターでもなく、われわれ自身の持論を、どう持つか。難しい時代だ、と思う。 今日もひねもす、支持者を訪ね、お一人お一人のお話を伺い、じっくりと耳を傾けた。 一部、教科書ならぬTV通りのご批判もお叱りも受けながら、しかし、実に有意義な、心の通う語らいを持つことができた。 くもり空に、バーコードのような電線。 日々の情報を記号のようにではなく、きちんと読取る力、ちゃんと考える力を磨いてまいりたい、と思う。