終日、政務。 夕方からは、松山市内にて開催された、 ��北京に輝け ビーチクイーン北京五輪 佐伯美香・楠原千秋選手激励会」、に参加した。 両選手が出場するのは、女子ビーチバレー。 ビーチバレーは、1996年のアトランタ五輪から、正式種目となった競技で、比較的歴史は浅いが、 最近は、浅尾美和現象ともいわれるほど、メディア報道がワイドショー化し、過熱していることもあり、 あー、あの水着のバレーね、と、頷かれる方もきっと多いのではないかと思う。 そういう意味では、華やかな印象を与える競技だが、おっと、どっこいである。 砂浜で、何かしらスポーツのトレーニングを、やったことのある人にはお分かりと思うが、 あんな柔らかな足場で、普通は、走れないし、止まれないし、跳べない。 そんな中で、バレーボールを、しかも、2人で行うということは、 ボールを拾ったら打つ番、打ったら拾う番、 で、全然休めないじゃないか、と、こちらが心配するほどに、過酷な競技なのである。 ビーチで普通にバレーボールをやってるように見えて。 やはり、選手たちは、ただ者ではない、強靭な身体と並外れた運動能力を持ったアスリート、なのだ。 さて、佐伯・楠原ペアに話を戻すと。 今月17日、フランスのマルセイユで行われた、ビーチバレー女子ワールドツアー第11戦のフランス・オープンでメキシコのペアを2-1で破り、念願の五輪出場権を決めたのである。 佐伯選手(ダイキ所属)は、2000年シドニー五輪以来の出場で、6人制バレーでのアトランタ五輪を含めると3度目、 楠原選手(湘南ベルマーレ所属)は、2004年アテネ五輪に続いて2度目の五輪出場、となる。 激励会の冒頭で、ダイキ㈱大亀会長から、 日本初の、プロビーチバレーチーム・ダイキヒメッツを結成した当時の秘話、 佐伯・高橋ペアで見事4位入賞した、シドニー五輪時のチーム強化エピソードなど、 約11年にわたるクラブの歩みが紹介され、 その間の、関係者の並々ならぬご苦労を労いながら、北京五輪にかける両選手に、力強いエールが送られた。 佐伯・楠原両選手とも、松山出身とあって、終始、地元の期待と熱気に包まれながら。 バレーを始めて25年、ビーチを始めて12年の集大成としたい、 との、佐伯選手の決意発表で、激励会は閉幕した。 さあ。次は、いよいよ世界への挑戦の開幕、だ。 8/9から始まる1次リーグにて、両選手の、熱戦の火蓋は切られる。 お2人の活躍をテレビの前で、 県民の皆様とともに、手に汗握りながら、応援してまいりたい。 がんばれ、佐伯選手、楠原選手! ��写真:左が佐伯美香選手、右が楠原千秋選手)
午前、部局折衝。午後、今治市での視察。 そして夜は、支持者会合に参加させて頂いた。 うだる暑さの中をフル回転、の今日は、 全身に流れるような汗をかき、心にも大量の汗をかいた1日となった。 正直、すっきりしないことが多かったのだが、 有難いことに、そういうとき私には、いくつもの、依処、がある。 わかりやすくいうと、駆け込み寺、的存在。 それは、大阪に、高松に、そして、愛媛にあって、 何でも包み隠さず相談できる、人生の先輩であり、 ビシッと原点に立ち返らせてくれる、軌道修正の名人であり、 かといって、厳しいだけではない、 気持ちと心をポジティブにしてくれる、励ましの達人であり、 そして何よりも、 欠点多いこんな私を、最大に理解してくださる先輩方である。 なんと有難いことだろう。 そんなふうに。人は、人の間にあって人間なのだ、と、心から思う。 さて、帰宅後。 ふと頭に浮かんだ、高松の先輩に、電話してみた。 “おーーー、ほまれちゃん久しぶりー、元気ぃ?”“えぇ、おかげさまで!先輩こそ、元気ハツラツぅ?” “あたりまえじゃん、(がっはっは!)”“ですよねぇ、(わっはっは!)” と、会話のさわりで、もう大事な用件は、済んでしまったのである。 20年近くもお世話になっていると、もう、あうんの呼吸、なのである。 元気じゃないから電話をかけてきていることくらい、先輩は、百も承知の上、だし、 こいつはオレに電話することで勝手に元気になるヤツだ、と、きっと思っておられる、のである。 事実、そうだし。 たわいもないといえば、たわいのない、先輩とのひとしきりの会話を終えて。 すっきりしない1日を、すっきりと、感謝で終えることができた。 その、すっきり。辞書で引くと。 わだかまりがなく、気持ちのよいさま、残るものが何もないさま、だそうだ。 宿題の多い明日も、辞書の通りに、すっきりと、がんばってまいりたい。 ��写真は、今治からの帰り道の、斎灘の、金波銀波。)
午後、松山市内にて開催されたKHJ愛媛県こまどりの会定例会に出席。 今日は、その全国組織である、「全国引きこもりKHJ親の会」の、奥山雅久代表が見えられ、約2時間にわたる、ご講演を伺った。 そもそも私が、 社会的引きこもり、といわれる、この問題の、根深さと深刻さについて詳細を知ったのは、 彼と埼玉新聞記者との共著である��ルポひきこもり」(埼玉新聞社刊)によって、であった。 そこには、当事者とご家族の壮絶な苦悩が、生々しい筆致で描かれており、��ご参照⇒ http://www.saitama-np.co.jp/main/rensai/kazoku/hikikomori1/osirase.html ) 読後しばらく動けないような衝撃を受けたことを、今もはっきりと、憶えている。 また、「全国引きこもりKHJ親の会」については、��ご参照⇒ http://www.khj-h.com/ ) 奥山代表ご自身が、引きこもった息子さんとの葛藤を通して、 これは、個人や家族の問題を超えて、社会問題というべきであり、次世代問題だ、 と、喝破されたところから1999年に立ち上げられたものであり、 現在では、全国42支部6,410家族に広がっている。 さて、講演について、だが。 終始、謹厳、というべき緊迫した空気に包まれた。 冒頭、奥山代表から、皆さんにお願いがある、として、 “この問題をわが家の問題だけ、とするのではなく、ぜひ社会のために、次世代のための問いかけとして、活動に取り組んでほしいのです”、 との、メッセージがあった。 その意味の強烈は、きっと彼にしか発信できないものであったろう。 ガンで全身を蝕まれ、財産もすべて投げ打ち、残された人生のすべてを賭けて、 社会的引きこもり問題の解決のために、全国をかけめぐり戦われる奥山代表の迫力に、 2時間は、あっという間だった。私の手元にある講演メモは、20ページを超えた。 今、全国で。社会的引きこもりの人口は、約100万人といわれているが、 その長期化すなわち、当事者と家族の高齢化と、拡大再生産的に純増推移しているところが、深刻の本質、と彼はいう。 そして。 これが200万人に膨れ上がる頃には、もはや日本は、経済的にも、社会的にも、立ち行かなくなる、 それでは遅すぎる、と、警告を発し、待ったなしの、官民挙げた取り組みの必要性を、説く。 当事者を調べたKHJと医療機関による分析結果からも、社会的引きこもり問題は早期対応が極めて重要で、 長期化するほどに2次、3次障害を誘発し、当事者が廃人化する可能性が高まる、のだそうだ。 個人にとっても、日本にとっても、存続の危機ともいうべき喫緊の事態に、 したり顔で情緒論を語る学者も、腰の重い政治家も、行政も、その体たらくを一喝され、 さらには、 世間体を気にして思い切れないご家族に対してまでも、厳しいアドバイスが、続いた。 胃がキリキリと痛むほどに、強烈な講演、であった。 次回の、9月議会。4回目の質問に立つ私の、なすべきは決まった。 奥山代表と、KHJ愛媛県こまどりの会の、皆様の思いを代弁させて頂くこと、と共に、 この、社会的引きこもり問題解決を、1mmでも具体的に、前進させること、だ。 そのための準備を、今日より進めてまいりたい。 そして、もっともっと現場に足を運び、耳を傾け、当事者各位の心に飛び込んでまいりたい、と思う。 ��写真は、身ぶり手振りも迫真の、奥山代表の講演風景。)
午後、松山市内にて。第20回松山ヒューマンネットワーク講演会、に参加した。 同ネットワークの稲田代表によると、12年前、地元同級生が集まった際、 40歳になったのを機に、何か社会貢献ができれば、との思いから会を立上げ、 毎回多彩なゲストをお招きしながら、今回、第20回を迎えることになった、そうだ。 その絆と、取り組みの持続に敬意を表したい、と思った。 さて、今日の講演会は、『種になりたい~地雷原の村で自衛官OBが見つけた第二の人生~』 と題して、地元愛媛出身の、知る人ぞ知る、日本地雷処理を支援する会(JMAS)・高山良二さん、が講師であった。 ��ご参照⇒ http://www.jmas-ngo.jp/page/ehimesibutop.htm ) 高山さんのご活躍は、かねがね存じていたが、見聞きするのと直接感じるのは、まったく別だ、ということを痛感した。 ご承知の通り、カンボジアを始めとした世界各国で、 戦後の後遺症といわれる地雷と不発弾の爆発音が、今も、鳴り響いている。 そして。親を失い、手足を飛ばされる人々が、後を絶たない。 そうした現状に対して、地雷等の不発処理に取り組むのがJMASで、カンボジア地雷処理専門家として活躍されるのが、高山さんである。 地元では、尊敬するお父さんの意味で、ター、と呼ばれるその風貌は、命がけの職場を感じさせないくらいに、柔和で穏やかであった。 そのアンバランス以上に、話はもっとサプライズだった。 全部を紹介しきれないが、一部だけご紹介すると。 彼が実践しているのは、住民参加型地雷処理活動、である。 普通、そんな危険な活動に住民を巻き込むのはどうか、と考えられがちだが、逆に住民参加型スタイルをとることで、 助ける側と助けられる側、ではなく、共に助ける側として、共同と自立の精神性を伝えたいというのが、その理由だそうだ。 それくらいカンボジア人は。あまりにも大らかで、人を疑わない国民性、なのだそうだ。 そんなエピソードとして、井戸の話をされた。 日本の支援機関・団体から、たくさんの井戸が贈呈されたが、井戸は、常にメンテナンスされないと、枯れてしまうものだ。 最初はもの珍しさから、井戸の周りに人が溢れたが、少し具合が悪くなると、修繕の仕方を教わるのではなく、それを捨て、みんな新しい井戸へと移っていくのだそうだ。 結局、60機贈呈された井戸の多くは、枯れてしまった。 だから、彼らの精神に自立心を喚起させることが、より重要なのだ、と。 高山さんは、日本の支援機関・団体に対しても、贈りっ放しは自己満足にすぎない、と、そのことを訴える。 贈った後、その支援によって、彼らと、かの国がどうなったか、というところまで見届ける、愛情と責任を、ぜひ持ってほしい、と。 それにしても。 あまりにも長きにわたる軍事政権と、内戦から解放された、カンボジア人たちは、 500万発ともいわれる危険な地雷・不発弾の隣り合わせで、また、いろんな物資が足りない中で、それでも、 戦争がない今は幸せです、と、 私には世界で一番輝いて見えるほど、満面の笑顔で、答える(写真)。 たしかに、日本は“豊かな”国、かもしれない。 でも、“豊かな人”の国は、むしろカンボジアの方だ、と、思った。 高山さんの講演の主題も、そこにあった。 日本人よ、心に風船を、と彼はいう。風船を膨らませるものは、日本人が本来持つ優しい心だ、と。 少しだけ他人を思いやる心、あるいは、惻隠の情。 凶悪事件が耐えない今の日本社会は、1人1人の中にかつてあった、そんな心の風船が、しぼんでしかも、放置されてしまったからではないか。 政治は、一生懸命、枝葉を直そうとしているにすぎない、幹を直さないとダメ、と彼はいう。 優しい心を、もう一度、国民1人1人に吹き込まない限り、日本という国そのものが、枯れてしまう、と憂う。 国際貢献を通して彼の目に映る、現在と将来にわたる日本の憂いが、 政治に携わる1人として、心に迫り、胸に響き続けた。 人生をかけて、現場に立ち続ける人の言葉は、重い。 聞きっ放しでは決して済まされない、私にできる責任の果たし方は何か、 ということを考えながら、帰途に着く。 また1つ、大きな宿題を頂いた講演会に、心より感謝、である。 ��写真は、そのスライドを見た瞬間、世界で一番美しい、と感じた、カンボジア人母子のとびきりの笑顔。)
早朝、久万高原町へ向かう。今日は、街頭遊説の、日。 いつもの小鳥のさえずりに加え、セミの鳴き声が、シャワシャワとにぎやか、だ。 キンチョーの夏、日本の夏、というCMが、かつてあったが、 セミこそ、日本の夏、である。 まだ私が小学校の低学年だった時、セミから、命の不思議、を学んだことを思い出す。 当時、私の家の周りは、みかん畑だった。 梅雨が明ける頃、土の中のセミの幼虫が、夜半ぞろぞろと、木に登ってくる光景を観察した。 示し合わせたかのように、一斉に、である。不思議、だった。 そして、登ってきた幼虫を手に取ると、薄茶色で、怪獣のような格好をして、しかも柔らかい。 面白くって、納屋にあったいぐりを持ってきて、取れるだけ取って、家に持ち帰った。 辺り一面、いぐりから這い出した、ニイニイゼミや、クマゼミや、ツクツクボウシの、幼虫だらけになった。 そして、朝、その鳴き声のやかましさで目覚めた。部屋中、♪セミ、セミ、セーミ、ミー、だ。 そして、柱に無数の、抜け殻。窓を開放すると、たちまち、勢いよく空へ飛んでいった。 セミを見ながら、父親は言った。 “セミはのー、土の中で7年くらい過ごしての、たった1晩で、成虫になっての、あと、1週間くらいしたら、死ぬんじゃ。” げっ。 何も知らない私は、セミは、普段はどこかに隠れていて、 夏になると出てきて鳴くもの、とばかり思っていた。 あと1週間で、死ぬ。本人、知ったらどんな気がするじゃろか。 かわいそう、と、命の尊さを、幼心に知ったのである。 そんなことを思い出しながら聞くセミの大合唱は、まさに命の謳歌。 生きる喜びを精一杯、おもいっきり、表現しているのだ。 セミの話が、長くなりすぎた。 AM9:00。地元党員の皆様とともに、三坂峠にて第一声。 私からは、先ごろ閉幕した通常国会における、公明党の取り組みと実績についてお訴えする。 学校耐震化の促進、クラスター弾全面禁止条約の批准、クールアースデーの創設、国家公務員制度改革など、 そして、党員の皆様には、長寿医療制度の改善内容などについてご報告を頂いた。 間違いなく、今日は猛暑日、と9時の段階で確信したが、まさに、その通り、となった。 体感温度がグングン上昇する中、私たちは、県下随一の広大な町を、計11ヶ所、回りに回った。 そして、語りに語った。セミに、負けないように。 たくさんの方のお手を振っての応援が、夏の日差しとともに、眩しく感じられた。 なかんずく。 猛暑にも関わらず、汗まみれになりながら、同行頂いた党員の皆様に、感謝が尽きない。 いつも本当にありがとうございます。 そんな、帰り道。 車のバックミラーに映る私の顔は、すっかり、こんがり、トースト色になっていた。