AM8:00、ホテルを出発。 バスに乗り込んだ私たちは、 北針記念碑のあるポイントアリーナ市を目指した。 途中、 ゴールデンゲートブリッジでの休憩をはさみ、 ひたすらバスに揺られること、約5時間。 ついに、北針記念碑に到着。 そこに見た風景は、切り立つ断崖を背にした入江、 であり、小さな漁港としての風情、であった。 想定内ではあったが、ハッキリと寒く、風も強い中、 記念碑の前で、 ポイントアリーナ市関係者による歓迎のセレモニーと、 引き続いて現地メディアの取材が行われた。 (セレモニー取材風景) ここで、北針記念碑について触れてみたい。 その話は1913年、今から97年前にさかのぼる。 アメリカで一旗揚げることを夢見た八幡浜の若者15名が、 わずか15mほどの打瀬船(うたせぶね)と呼ばれる帆船で、 地元を出航し、 (打瀬船の手作り模型) 北針という磁石一つを頼りに太平洋横断を決行し、 58日かけて同年8月13日、遂に漂着したのが同地であり、 距離にして1万1000kmという、常に死と背中合わせの、 この無謀の船旅はしかし、雄飛、不撓不屈、進取といった、 八幡浜人としての誇りを厳然と伝える希望の伝説、 となった。 その先人たちに連なる末裔が、県人会の皆様であり、 今回の八幡浜訪問団の皆様方、なのだ。 その、現地に立った感動はいかばかりであろう、 と忖度しながら、行程は次へと進んでいく。 北針記念碑の近くにあるレストランにて開催された ポイントアリーナ関係者との昼食懇談会では、 大城市長をはじめ八幡浜訪問団による各種セレモニー、 記念品贈呈等の後、和やかな懇談のひと時が持たれた。 引き続き場所を移しての記念植樹等を滞りなく終了し、 名残惜しくもポイントアリーナを後にすることとなる。 (記念植樹風景) サンフランシスコに到着したのは、21:00を回っており、 久しぶりに空腹を覚えたのは、私だけではなかったろう。 この日の夕食は、日本人が経営する和食店であったのだが、 おひたしとか、漬物とか、の、ちょっとした一品に 感動を覚えたのは、これも私だけでなかったに違いない。 いよいよ明日は、最終日。 時差の関係で2日かけて帰国する計算になるが、 無事故で公的訪問の有終の美を飾りたい、と思う。
AM10:00、在ロサンゼルス日本国総領事館に、到着。 一昨日、記念式典に駆けつけてくださった 伊原純一総領事への御礼を兼ねた表敬訪問、だ。 会議室に通された私たちは約1時間にわたり、 伊原総領事ご本人から、 所管する南カリフォルニアの産業・経済や、 日系人社会の現状等についてお話を伺った。 まず、同地域の在留邦人数は約9万人で、 その内、7万人弱がロサンゼルスに集中しているとのこと。 その多くが、1,200社あるといわれる日系企業の関係者で、 現地で約12万人もの雇用を創出しているそうだ。 ロス経済圏における総貿易量は今では中国がNo1だが、 直接投資額では現在も日本が1位、だそうで、 同経済圏における日本の貢献インパクトは依然、極めて高い、 とのことで、昨日と異なり少し、勇気づけられる思いがした。 (伊原総領事を囲んでの記念撮影) ちなみに、総領事館には、現在約50名が勤務しており、 その規模は小国の大使館以上、だそうである。 さて、同地域は、ロサンゼルス港、ロングビーチ港など 全米コンテナ取扱い量の1/3を占める運輸拠点となっており、 貿易や国際商取引が経済をけん引する構造だそうだが、 最近の課題は、低迷が長期化する失業率、だそうだ。 全米平均で9%の失業率がこちらでは12%という状況で、 それまで好調だった不動産業界が、 リーマンショック以来回復していないことが大きいそうで、 それ以来、連邦政府は、最長半年であった失業手当を、 特例として99カ月まで延長給付して対応しているそうだが、 一方では連邦政府の財政赤字が深刻を増し、 職員に給料が支払えず裁判訴訟が起きている状況もあるらしい。 わが国とも近いが、それでも異なるのは、 アメリカ人のダイナミズム、と伊原総領事は語られる。 特に、ヒスパニックとアジア系で人口の半数を超える、 移民国家といわれる同州にあって、この不景気の中、 それでも人口が増え続け、起業件数は伸び続けるという、 動きを止めない強さが、同地域の強みであり活力であり、 そこが日本との大きな違い、との総領事の指摘は、 わが国の喫緊の課題を射ているように、思えた。 つまり、教育、である。 世界と将来を見据えたわが国の人材育成のあり方について、 制度、のみならずコンセプトまで遡った確固たるビジョン、 というものの必要性を、 私自身の課題としても痛感させられる思いがした。 異国にて授かった大いなる宿題、だ。 その他にも種々のレクチャを頂き、和やかな中にも 深い見識の詰まった、正にあっという間の1時間、であった。 その後、総領事館を後にした私たちは、 バス車中にて昼食をとりつつ、ロサンゼルス空港へ、移動。 手続きを済ませてフライトすること約1時間、 次の目的地であるサンフランシスコに、到着。 空港を一歩出ると日差しが眩しいくらいであったが、 夜は一転、ジャンパーがないと困るほど寒くなる、 ということを、この後身を持って知ることになる、 私たちであった。 その夜の行事は、市内のレストランで開催された サンフランシスコ在住県人会の皆様との交流会。 今回参加された県人各位は全員、八幡浜関係者、であり、 それほどサンフランシスコが所縁深いのには、 やはり理由があり、かつ歴史があるのであって。 その詳細については、明日のレポートに譲りたい。 加戸知事の開会あいさつ、 現地県人代表の菊池ヘンリーさんの歓迎あいさつ、 大城八幡浜市長による乾杯の後、さっそく懇談へと進み、 各テーブルそれぞれに会話の花が咲いていったが、 私が着いたテーブルは偶々、八幡浜訪問団であったため、 眼前にアルカトラズ島を臨む絶景のポイントビューにあって、 (アルカトラズ島) 何といっても今は亀ケ池温泉が大人気ぞな、とか、 山本ひろしさんにはお世話になっとるけん、とか、 南予はまず道を何とかしてもらわんと困らい、など、 数日ぶりの地元話が、久々の日本語会話で行われ、 あれれ、県人会との交流は?と心配になりかけた時、 大城市長を先頭に八幡浜市関係者による“てやてや音頭”が、 各テーブルを練り歩き披露され、会場はすっかり一体化して。 続いて、現地県人の矢野ジョージさんによる 県人会の沿革から現在に至るまで詳しいお話を伺い、 故郷との絆が、いかにかけがえのないものであったか、 今もなお重要であるか、感動と共に理解することができた。 そしてさらに交流が深まる中、会はお開きとなり、 会場の外にて全員の記念撮影を行い散会となるのだが、 外は、冬を感じさせるほどすっかり寒くなっており、 事前の情報収集の必要性を痛感することとなった。 (全員で記念撮影) 明日の目的地は、ポイントアリーナ市。 かなり北上するため、きちんと寒さ対策もして、 資料も再度読み込んで、準備万端、臨んでまいりたい。
AM9:15、リトル・トーキョーにて 県人会の川名様が経営されるヤマサ蒲鉾の工場を、視察。 今から30年前、1955年に先代が創業され、 現在は2世のフランクさんが社長を務められている。 社名の通り、蒲鉾が中心ではあるが、 こちらの工場では、天ぷら、ちくわ、海苔、乳酸菌飲料を、 また別の工場では、クッキー、麺、精肉などを製造加工し、 日・韓・台湾系人を主な対象顧客として販売されており、 ロスになくてはならない食品メーカとして活躍されている。 今日に至る試行錯誤とご苦労話を伺いながら、 また、試食させて頂きながら、 なぜ、こちらの蒲鉾が、 目に飛び込んでくるようなショッキングピンクで、 コシがなくねっとりとした食感なのか、理解した。 そうしないと売れないから、なのだ。 なるほど。 どこであっても、事業は常に顧客から始まるし、 顧客の支持を失うと事業は存在できない、のだ。 政治と有権者もまた同じことがいえるであろう。 いずれにせよ、あらためて。 アメリカ社会に確固たる地歩を築くために奮闘された 県人の皆様のご努力と歴史に、心から敬意を申し上げたい。 その後は、ロス市内を移動し、 午後はリトル・トーキョーの視察となる。 1900年代初頭、 数万人の日本人が移住し、小東京として栄えた同地だが、 第二次世界大戦の際、日系人が強制収容された後の一時期、 入れ替わるように、アフリカ系アメリカ人の街になったそうだ。 そして戦後、 再び日本人・日系人が戻り始め徐々に復活していったそうだが、 現在は、 既に3世・4世の時代に入り、その多くが郊外に居を構えており、 同地における日系人の人口は減少を続けている、という。 逆に増加が著しいのが、韓国系・中国系の人々で、 それは、看板や広告など街並みにもハッキリと見てとれた。 両国経済の勢いは、 日本の国内ばかりでなくアメリカ社会をも席巻しており、 リトル・トーキョーの風景は、疲弊する国内の地方にも似て、 日本経済の低迷という現実を映し出しているかのように、見えた。 国政は、政局をしている場合ではなく、 地方政治もまた、地域経済の成長戦略をしっかりと描き、 それ以上に、実行の速度を上げていかなければならない。 本県においては、 愛媛県経済成長戦略2010で着手を始めた事業の中から、 一刻も早く成功の芽出しができるよう、 私自身しっかりと取り組んでまいりたい、と思う。
ロス市内のホテルにて、AM11:00。 県人会・現地関係者約200名、訪問団約100名、 総勢約300名が会場を埋め尽くす壮観の中、 今回の最大の記念行事である、南加愛媛県人会 創立100周年記念式典が、盛大に挙行された。 日米両国国歌斉唱、先亡者への黙とうに続いて、 松岡県人会会長の開会の辞は、 故郷との絆、文武両道の精神、など 日本人としてのアイデンティティによって支えられた 100年という道のりに対する感謝と、 次世代の更なる交流発展を祈る万感にあふれていた。 加戸知事からは、 英訳するとラブリープリンセス、と言えなくもない、 当意即妙の本県紹介を交えた心温まる祝辞が述べられ、 在ロサンゼルス日本国総領事館の伊原純一総領事からは、 南カリフォルニア地域の経済産業の概括と、 日系コミュニティが占める地位等について触れた上で、 100年前、最初に井戸を掘った人を忘れてはいけない、 との最大の敬意と、心からの祝福が寄せられた。 続いて、県人会のこれまでの沿革紹介の後、 昼餐会、いわゆる懇談へと式典は進んでいったが、 同席の県人の皆様と会話しながらあらためて痛感したのは、 若い頃、英語をマスターしておけばよかった、との後悔。 昨今では、英語を社内公用語にする企業が増えているが、 グローバリズムの今後を想定すると、 複数の外国語が話せて当たり前、という時代の本格的な到来を、 ひしひしと肌で感じるひと時であった。 それにしても。 ロスでは今、龍馬伝が大人気で、ぜひ土佐に行ってみたい、 という方が多く、龍馬フリークの知識の豊富さに、驚いた。 国営放送が在外国日系邦人に与える影響の大きさ、即時性が ここまでスゴイとは、と実感した。 さて、数々のプログラムをもとに滞りなく式典は進み、 最後に、出席者全員で「ふるさと」の合唱となった。 忘れがたきふるさとを想い、目頭を押さえながら、 涙をぬぐいながら歌われる県人会の皆様のお姿を、 目頭熱く、まぶたに焼きつけようと思った。 感動の余韻を残しながら、その後、私たちが向かったのは、 リトル・トーキョーにある全米日系人博物館、であった。 (全米日系人博物館) ここで私たちは、県人会のみならず、日系移民の、 壮絶な歴史を目の当たりにすることに、なる。 同博物館は、 日系アメリカ人の歴史や文化を伝承・展示しており、 収蔵の品は、 彼らの工芸品・服飾・写真・芸術など、10万点以上。 初期の移民の多くは独身男性で、 家事手伝いや鉄道工夫や単純労働などから始まり、やがて、 写真によるお見合い結婚などで妻を日本から呼び寄せ、 次第に日本人移民家族が西海岸地域に増加していったという。 そうしてようやく安定しつつある軌道を“絶望”に変えたのが、 真珠湾攻撃によって始まる第二次世界大戦であった。 日系人は敵国人とみなされ、彼らは私有財産を没収され、 強制収容所へと送還され、不当な差別と生活を強いられるのである。 説明者の解説や、館内の映像、写真、生活道具などを通して、 当時の悲惨な収容所生活の様子が、痛切に、伝わってきた。 そういう状況にあっても、彼らは希望を失わず、 アメリカ史上もっとも多くの勲章を受けた部隊と言われる 有名な「第442連隊」を輩出させ、 戦後、 激しい偏見や社会の受入れ拒否という状況にあっても、 努力を惜しまず、ついには「模範的マイノリティ」として、 アメリカ社会から称賛される現在の地位を築かれた、のだ。 解説者のメリーさんは、この私たちが歩んだ歴史と事実を、 記憶していてほしい、と私たちに対して切実に訴えられた。 日本人と、ますます全世界に広がりゆく日系人との“絆” について考えることは、 こうした不幸な歴史を繰り返さないために極めて重要、 ということを心に刻むとともに、戦争ばかりではなく、 自殺者が絶えない状況に象徴される今の日本にとって、 家族や地域における“絆”がいかに重要であるか、 今こそ見直し再構築することが急務、との確信を深める 貴重なひと時となった。 こうした出会いや機会に感謝しながら、 しっかりと自身の役割を果たしてまいりたい、と思う。
本日7/31から8/6までの7日間、 南加愛媛県人会創立100周年を記念する 公的訪問団の一員として、訪米の途に就く。 ��*南加は、南カリフォルニアの意) 皆様にはシリーズで順次ご報告させて頂きたいと思うが、 そもそもまず、南加愛媛県人会(以下、県人会)とは何か、 その概要について触れてみたい。 県人会は、1909年(明治42年)7月、田中時夫さん、 茂川常太郎さん、石崎長穎さん等が発起人となり、現地発足。 太平洋戦争という苦難の時代をはさみながらも、 故郷愛媛との交流を“会”の希望とし“個”の勇気と変えながら、 今日、米社会に確固とした日系コミュニティを築いてこられた、 その原動力ともいえる、同郷の“絆”組織、である。 そして。 県人会はそうした先人たちのご苦労を礎に、 本年で100周年という世紀の節目、を迎えることとなったが、 その100年にわたる、県人の南加日系人社会発展への尽力と、 愛媛県・日・米相互交流促進に寄与された功績に対する顕彰、 並びに、筆舌に尽くせぬ先人の苦難の歴史に敬意を表し、 今後更なる交流と発展の礎としての100周年を刻むべく、 この度、 加戸知事を団長とする訪問団が派遣されることとなった、 というのが今回の記念訪問の趣旨、である。 現在、 ロサンゼルス市を拠点に105名の会員を擁する県人会だが、 約30年前までは優に400名を超えていた、といわれる。 このことについて、 郷土の先人たちが、米地域社会に根を張り世代交代も進んだ今、 生まれも育ちもアメリカという3世・4世が主役の時代となり、 その若者世代に組織をどのように継承してもらうかが最大の課題、 と、松岡八十次県人会長(大三島町出身)は述べられているが、 今回の訪問を通して、その実際を肌で感じさせて頂くと共に、 故郷の絆と日米交流の将来についても考えてみたい、と思う。 さて、以下早速、 本日の主要行事についてレポートしてまいりたい。 快晴の8:40、松山空港にて公的訪問団の出発式を行い、 14:00、成田空港にて民間訪問団を含めた結団式を経て、 一行約100名は一路、米ロサンゼルス市へと向かう。 日本時間の7/31夕方17:45に成田を発って、 現地時間の7/31お昼過ぎ13:00頃、ロスに到着。 このタイムスリップは、 日本と-16時間の時差で生じるパラドックス。 ロス空港での入国手続きを済ませて、昼食の後、 私たちがめざした、記念すべき最初の訪問先は、 県人の松秀二郎社長(吉田町出身)が経営される マルカイ・コーポレーション。 同社は南カリフォルニアを中心に現在12店舗を展開し、 日系3大スーパーの1つに数えられる。 (マルカイ・コーポレーション店内風景) 到着と共に店舗を見学させて頂いたが、 店内狭しと“日本”の品がズラリ、にまず驚く。 価格帯も、うなぎ蒲焼3.98ドル(約350円)など、 正にスーパープライス、であった。 次に驚いたのは、 屏風?仏像?家具?絵画?など、 日本のスーパーでは普通見かけない“雑貨”が 店舗アイテム全体の約1/4を占めていること、 であった。 これは、その後の松社長様のお話によると、 日系人の心を満たすことを最大のミッションとして 取り組んでこられた同社の現時点での全体最適であり、 現地顧客の求めるマーチャンダイジングに他ならない、 とのこと。 厳しい米流通経済において 様々な制約条件を抱えながら、 堂々の日系3大スーパーの地位を確立された同社の、 執念の経営努力、を垣間見る思いがした。 松社長様からはこの他にも、 吉田町に疎開されていた小中学校当時の思い出や、 渡米後のご苦労、故郷に対する思い等お話し頂き、 約1時間程度であったが、故郷との絆を、 互いに熱く確認し合えた感動的なひと時であった。 さて、この日もう1つの行事は、 県人会の皆様との、交流懇談会。 まだ強い日差しが残る、現地時間18:00。 開会冒頭の、 感極まってしばらく言葉にならない、 松岡県人会長様の歓迎あいさつには、 訪問団員の多くが目頭を熱くしたに違いないし、 続く加戸知事の表敬あいさつでは、おそらく、 県人会の皆様方も万感が込み上げたに違いない。 (交流懇談会風景) その後、出席者の自己紹介を交え、 約2時間にわたる懇談となったが、 同郷の親近感からか、あっという間に、 身振り手振りや、お互い片コトの日本語や英語で、 会場内あちらこちらに会話の花が満開、となった。 同郷の絆の、有難さと心強さと確かさを肌で感じ、 感謝と敬意でいっぱいの訪問初日、となった。 いよいよ明日は、今回の最大の記念行事である、 南加愛媛県人会100周年記念式典、だ。 次の100年に向けて、 歴史的な一歩として刻まれることを期待しながら、 先人への敬意と参加各位の祝福を胸に臨みたい、 と思う。