午後、東温市の坊ちゃん劇場に招かれ、封切りとなったミュージカル「龍馬!」を鑑賞させて頂いた。��ご参照URL⇒ http://www.bochan.jp/ ) 感想は、ブラボー、のひとこと。 外国なら、スタンディングオベーション間違いなし、だ。招かれたから言っているのではないのであって、本心なのである。 そして、本ミュージカルの主人公は、タイトル通り、坂本龍馬なのである。 言わずもがなの、四国が生んだスーパーヒーローだが、脚本・演出をご担当されたジェームス三木先生によると、 歴史上の人物で国民にもっとも人気が高いのは、江戸時代までが源義経、明治時代以降が坂本龍馬、だそうだ。 ということは、約140年。 それほどの長きにわたり、日本人の心を、磁石のように捉えて離さない龍馬の魅力は、いったいどこにあるのか。 それこそが、本ミュージカルの主題であったろう。 ジェームス三木先生が今回描いたのは、薩長同盟から大政奉還、そして近江屋襲撃にて凶刃に斃れるまでの、約2年間。 まさに、龍馬の生きざまを永遠に輝かせた、その33年の人生のクライマックスの時間、であった。 それが、先生の手にかかると、見せられる、魅せられる。 歌あり、タップダンスあり。フラメンコあり、お客さんとの会話あり。 涙と、笑いと、シリアスの波状攻撃で、気づけば、あっという間の1時間40分であった。 龍馬という人物の志を、現代風に翻訳し演出されたジェームス三木先生の手腕は、お見事!という他ない。 まさに、ブラボー、なのである。そしてあらためて、今の時代。 遥かな志ゆえに、決して夢と希望を決して失わなかった龍馬の、あの自由奔放さと明るさに、私自身、大いに励まされる思いがした。 そして、龍馬独唱のシーンでは。 ��♪目を開け 民の暮らしに / 目を開け 民の苦しみに / ・・・助け合えば 日本はひとつ ♪目を開け 海のかなたに / 目を開け 国の行く末に / ・・・分かち合えば 世界はひとつ・・・ 」 というフレーズが、思わず耳に刺さった。 人間と、世界と、未来に目を向けたとき、日本も世界もない、私たちは1つである。 そんなメッセージに、一人の議員として、心を打たれずにはいられなかった。 そして、侍であり、剣術家であり、船乗りであり、実業家であり。 なおかつ、恐妻家ならぬ恐姉家でもあったが、やはり龍馬は。空前絶後の、偉大な政治家であった、と思わずにいられなかった。 そして鑑賞後、心が思いっきり洗濯され、突き抜けたような爽快な気持ちになった。 この感動をぜひ、とばかり、1人でも多くの方にお運び頂きたい、と思う。 ��写真:左から龍馬役の上野哲也さん、私、おりょう役の若松ゆえさん。)
終日、党務。ということで、書き出しに苦労する。 その中で、伺ったこんな話。 戦後間もない、昭和23年。まだ、アメリカ軍が日本に駐留していた頃、である。 松山に、シャールズ中佐という方が着任されたという。そして、中佐がまず目にしたものは、汚い“お堀”の姿だった。 そこには、ボウフラが湧いていた。悪臭を放っていただろう、さぞ見苦しかったことだろう。 当たり前である。焼け野原の中で、生きるのに精一杯の時代なのである。 中佐は、すかさず指示したという。“お堀を、埋め立てろ!”と。 しばらくして、当時の地元議会は、これを満場一致で決議したという。 ほとんど占領下の日本である。仕方がないではないか、という気持ちであったろう。 ところが、それに猛反対したのは、他ならぬ地域住民であった。 “何をいうか!お城とお堀は一体ではないか! 断じて、認めるわけにはいかない!”と。 いつの世にも、リーダーは存在するものである。住民の声を聞いた、岡江さんという弁護士が、悠然と立ち上がった。 その気骨は、筋金入りだった。 かつて昭和19年、時の最高権力者である東条英機に対して、2回も弾劾書を提出した、命さえ顧みない闘士の人、だったのである。 岡江弁護士は、地元紙に糾弾の投書を掲載しながら、その足でシャールズ中佐を訊ね、堂々と反対を訴えたという。 中佐は、“それは、あなたがたの民意ではないか!”と、議会の議決をもって、岡江弁護士に切り返した。 岡江弁護士は、してやったりであったろう。“では、あなたは民意に従う、という理解で宜しいですね!” その後、再び議会が開かれ、お堀埋め立ての件について、先の議決が取り下げられることとなったのである。 勝ったのは、住民であった。 さて、この史実は、何を物語っているだろう。それは、勇気こそが社会を変える、ではなかったか。 郷土の先輩である岡江弁護士の戦いに、学ぶならば。それは。 わが身を投げ打ってでも、民意を声に出して戦う勇気を持て、であろう。 しっかりと心に刻み、自身の使命を果たしてまいりたいと思う。 ��写真は、上品な芳香ただよう白木蓮)
朝一番で、企業訪問。 訪ねたのは、私が民間企業在籍時に、大変お世話になった某食品メーカーの、所長である。 大変ユニークなキャリアを持つその方は、実は、同い年。松山赴任時の歓迎会で、すっかり、そのお人柄のファンになった。 でもって、とっても心に残る仕事をさせて頂いた。今も続く、毎週のラジオ番組は、欠かさず聴かせてもらっている。 その所長の転勤が決まり、お別れの挨拶に伺ったという次第で。 引継ぎにお忙しい中、お会いできるのは、この時間しかないということで、感謝の気持ちをどうしてもお伝えするべくお邪魔させて頂いたのであった。 転勤先は、本社とのこと。 ますますのご活躍を、とお互いにエールを送りながら、再会を期しつつのお別れとなった。 その足で向かったのは、西予市。県民相談を兼ねて、終日、先輩に同行し、動きに動いた。 その距離、250㎞。大変多くの知己を得、さまざまな人生を学ばせて頂いた。 ここは、米どころ、西予である。どのお顔も、お人柄も、実るほど、である。絵に描いたような謙虚さが、心に沁みてくるようであった。 20軒ほどお訪ねし、帰る頃、ちょうど夕方。沈む夕日の立ち止まる町、を通過した。 車中で先輩方と会話しながら、やはり、若松さんは今日もお忙しいだろうか、と想像しながら。 ちょっと、ここで休憩しましょう。夕日をパチリ、デジカメに収めた。 やはり私には、このほうの才能は、なさそうだ。 ��写真は、その、沈む夕日。)
夜、支持者の座談会に出席させて頂く。久しぶりの、地元である。 以前は、週に何度も、少なくとも、月に何度も、お会いし、お世話になった皆様方である。 月日が変わり、環境が変わったとはいえ、ふと、もう一度あの頃に戻りたい、という感傷がよぎる。 が、それは、それとしながら、新たな気持ちで、座談会に臨ませて頂いた。 実に、感動の、ひととき。触発の、ひととき、であった。 そして。世の中の、因と、縁と、果、を思わずにいられない、のであった。 私が、今、こうして重かつ大なる役割を担い、働かせて頂いているのは、そこに様々な縁が、原因となり結果となってつながる、連鎖であって。 その連鎖をたどっていくと、昭和29年まで遡り、あるいはさらに。この地元に、そのような尊い歴史があったことを、私は初めて知ったのである。 感動せずにいられなかったし、その先輩の志に思いを馳せたときに、自身の使命を、あらためて覚悟させられるような緊張を、覚えるのであった。 人生に無駄はない、すべてに意味があるということと、私の人生において、私は、すべての皆様とつながっていることを、思う。 何だか哲学チックになった。それほど深みのある、会合であった。 私も、皆様に負けないよう、熱い思いを語らせて頂くと共に、この間の議会活動についてのご報告をさせて頂いた。 掛け値なしで、終始。親子のような、兄弟のような、皆様の真心を、感じるのみであった。 私は、ただ、ご期待にお応えするのみである。それは、背伸びをせず、謙虚に、誠実に、着実に、前進する、ということだ。 そういう初心と原点を。座談会のたびに確認させて頂ける身の福運に、ただただ感謝、である。 ��写真は、可憐な水仙。名曲、7つの水仙、が懐かしい。)
午前、そぼふる雨の中、県民相談に走る。 こうした活動は、議員の基本であり、私の場合も、ほぼ日常活動となっている。 内容については個人情報であるため、そんな日は、書物の所感など綴るようにしている。 この間は、そうした毎日であった。 と前置きはそれくらいにして、今朝の話。ポイントは、お調べと折衝の、2点であった。 早速、県庁に戻り、部局を訪ね、種々レクチャを受ける。 お話を伺いながら、あらためて。タテ割りとは、スペシャリストの異名である、と感じ入る。 民間でいうところの、スタッフに近い。とすると、営業というゼネラリストの機能も、ぜひ庁内に欲しいところだ。 ともかく、資料を入手・加工し、今度は、折衝だ。 そんな一連の対応を済ませると、再度、相談者宅に引き返し。ご依頼内容の回答と、経過報告を行なった。 こうして書いてみると、何だか、あわて者のようではある。なるほど、あわて者、上等。 民間企業の営業時代、対応の速さは価値、という、それこそ生涯にわたる価値を、叩き込まれたことを有難く思う。 驚かれたように喜ばれる、相談者のお姿が印象的であった。そして、折衝ごとが上手く運ぶといいですね、とお宅を辞した。 まだ、お昼過ぎ。机に置き去りの書類の山を、なんとかしなくちゃ。 と焦るほどに。 この置き去りは、優先順位の問題か、キャパシティの問題か。迷うのであった。 ��写真は、県庁第一別館の行き先案内、の一部。各部門のスペシャリスト案内ともいえる。)